海に囲まれ自然豊かな知多半島・南知多町におけるビワ栽培の歴史とは

愛知県知多半島は温暖な気候で果樹の栽培に適した土地です。地江戸末期に「唐ビワ」を導入してビワの栽培が始まりました。
知多半島の最南端に位置する南知多町の特色と、ビワ栽培の歴史を紐解きます。

南知多町ってどんなところ?

知多半島は、名古屋市の南部から南に突き出た半島です。南知多町は5市5町からなる知多半島の最南端に位置し、伊勢湾と三河湾に囲まれ篠島・日間賀島などの島々もある、自然豊かな町です。
名古屋市街から約1時間ほどの距離で、海沿いの温泉宿や、白い砂浜が美しい海水浴場でのマリンレジャー、愛知県最大の漁獲量を誇る豊浜漁港の新鮮な海の幸などを楽しむことができます。
また、温暖な気候を活かした野菜や果物の栽培も盛んで、名古屋市という大きな商圏へ農作物を供給する農業地帯であり、いちご狩りやみかん狩りなどの体験をすることもできます。

南知多町におけるビワ栽培の歴史

南知多町におけるビワの栽培に関連する最も古い書物は、内海利屋(ウツミトギヤ)の大岩豊松氏(1869~1960年)が、明治37、40、45年に記した「種枇杷見本帳」です。この書には、農業の発展と内海ビワの根源を調べると、宝暦年間(1751~1763年)の頃から山に生えていたこと、知多半島が太陽の光を良く浴び、海に接していて果樹に適した地であることなどが記されています。
この書から、すでに江戸時代中期にビワが存在しており、南知多町内海利屋では江戸末期に『唐ビワ」が導入され、実生繁殖が試みられていた様子がわかります。

江戸期の内海には九州から東北までを商圏としていた全国屈指の海運業者「前野小平治」がいて、おそらくこの海上交通(尾州廻船内海船)によって長崎方面から『唐ビワ』が入手されたと考えられます。
その後、明治初期より大岩豊松氏が主導して品種改良を試み、明治15年頃には「長実利屋枇杷」「丸実利屋枇杷」を代表とする優良品種が存在していたことがわかります。明治43年には、その改良した大粒の果実が実る苗木の出荷も始めたそうです。
今はそれらの品種は生産されていませんが、当時1万本以上の苗木生産が行われていたということを知ると驚くばかりです。

農家の人たちの知恵と努力で南知多町のビワ栽培を促進

同じく南知多町の東海岸側の大井地区では、昭和初期から、養蚕の不振や米価の暴落を補うために、山を開墾してビワを植栽し始めました。昭和9年と10年の2年間で、愛知県農務部果実部会の技師や、知多郡農会の技師らの指導を得て進められました。

農家の方々の知恵と努力とで順調に売り上げも立ち始めましたが、昭和34年の伊勢湾台風によって大被害を受けて生産意欲が衰退し、生産量も耕作面積も激減していってしまいました。
内海地区でも、この伊勢湾台風によって甚大な被害を受け、生産は衰退していきましたが、昭和48年、南知多町内3地区の農協が合併し、翌年ビワ部会を設立。そして、昭和55年からの南知多町国営農地開発事業に伴い、大規模なビワ植栽が進められました。

しかし、農地を分譲して事業を進めようとしたものの、ビワ栽培の技術が高まる前に、収穫前の摘花・摘蕾・袋掛けの手間や、年間を通しての枝の剪定などの労働の多さに苦慮し始めました。田植え時期と重なる収穫時期も労働力の分散となりました。その上、収穫をしようとする直前に、カラスやハクビシンに果実を食べられてしまうという鳥獣被害に遭い、生産および収穫意欲が激減してしまいました。そのため、せっかく事業着手したものの、ブランディングするに至りませんでした。

この事業で試験的に開拓された2haの畑は、出荷こそされていないまでも、手入れを続ける農家の方々によって青々と大きく育ち、南知多町の人々の生活のそばに寄り添ってきました。

参考文献:
名古屋大学農学部食糧生產管理学講座 研修報告書
昭和55年度 愛知県農業改良普及員大学留学研修論文

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